RUGBY TOWN KAMAISHI ラグビーのまち釜石

ラグビーのまち釜石

ラグビーのまち釜石

鉄と魚とラグビーの町として知られる岩手県釜石市は、2019年に開催されたラグビーワールドカップ™の東北唯一の開催都市でした。

大島高任らによる近代製鉄の発展を追って釜石ラグビーの歴史も積重ねられ、地元出身の叩き上げの選手を中心とした新日鐵釜石ラグビー部による日本選手権7連覇(1978-1984)の偉業は、その象徴とも言えるスタンドにたなびく大漁旗と共に、釜石シーウェイブスRFCに受け継がれています。

1896年、1933年と2度の大津波を経験し、戦争による艦砲射撃の砲火も経験した釜石の町は、そのたびに不屈の心で再建されてきましたが、2011年3月に発生した東日本大震災で死者行方不明者1000人以上と言う甚大な被害に遭いました。

それでも再びそこから立ち上がり、何度も災害を乗り越えて来た鉄の精神力と国内外の皆様のたくさんのご支援によって、少しづつかつ着実に復興を進めて来ました。

そして迎えたラグビーワールドカップ2019™の開催にあたっては、予定されていた2試合のうちの1つ(ナミビア-カナダ戦)が台風の襲来によって中止になるという新たな苦難に遭っても、小さな町の不屈の魂と感謝の心を日本中世界中の皆様に届け、日本大会成功の一端を担いました。

 

「ラグビーのまち」の始まり

釜石市が「ラグビーのまち」として広く認知されたのは、1980年代の初頭に全国に名を轟かせた、新日本製鐵釜石製鉄所ラグビー部、通称『新日鐵釜石ラグビー部』の存在に由来しています。
ラグビー日本一を決定する「日本ラグビーフットボール選手権大会」において、1979年から1985年にかけ7連覇という偉業を成し遂げ、その圧倒的な強さから「北の鉄人」と呼ばれました。

新日鐵釜石ラグビー部の歴史を振り返ると、ラグビー日本代表に名を連ねた選手が多数在籍しましたが、最初からスター選手揃いだった訳ではありません。チームは主に、地元である東北・北海道の高卒選手を迎え入れ、基礎から鍛え上げるという育成方針を掲げていました。また、当時の企業チームにプロ契約の選手制度はなく、選手は皆、仕事とラグビーを両立させていました。

当時は、日本選手権の決勝戦は毎年1月15日と決まっていました。前日の夜に釜石市から応援バスが何台も出発して夜通し走り、試合会場の東京・国立競技場を目指しました。6万人の観客で満員に埋め尽くされたスタンドでは、「大漁旗」(別名:フライキ・・・漁船が港に戻る時に大漁を知らせる為に掲げたカラフルな旗)が何十本も振られ、選手にエールを送りました。この応援スタイルは釜石ラグビー名物となり、今でも受け継がれています。

地域型クラブチームの誕生

しかし、7連覇後の1985年からチームの成績は低迷していきます。
1993年以降は、下部リーグとの入替戦で何とか踏みとどまる成績が続きましたが、2000年入替戦に敗れ、ついに下部リーグへ降格してしまいます。
それは奇しくも、新日本製鐵が社内運動部の強化を抑制する方針を決定した時期と重なり、企業チームであるが故の苦悩でもありました。

「ラグビーのまち」の歴史は途絶えるのか?
そんな不安の声も聞こえましたが、新たに地域型クラブチームとして再出発します。
新しいチームの名称は一般公募され“釜石シーウェイブスRFC”となりました。そして現在まで、「釜石ラグビー」の伝統と誇りが受け継がれています。

シーウェイブスが受け継いだのは「北の鉄人」たちの誇りだけではありません。
今や全国各地にたくさんいる、“釜石ラグビー”を愛する人達の存在です。
どの試合会場にも大勢のサポーターや釜石ラグビーファンが詰めかけ、アウェイの会場をホームの雰囲気に変えてしまうほどの声援を送り、“フライキ”を振る光景は昔と変わりません。

東日本大震災

そんな熱い応援を受けながら、上位リーグへの昇格を目指していた釜石シーウェイブスが、設立10周年を迎えようとしていた矢先の2011年3月11日、東日本大震災による津波が釜石市を襲いました。例年ならば春シーズンへ向けて練習を重ねる時期でしたが、チームは一時活動休止に陥ります。

甚大な被害の中、選手たちは全国から届く物資の搬入などのボランティア活動に率先して参加しました。「重い物なら任せて下さい!」と、軽々と荷物を運ぶ選手たちの姿を見て励まされる方々も多かったといいます。

こんなエピソードも残っています。当時チームに在籍していた、キャプテンPita Alatini(元ニュージランド代表)とScott Fardy(元オーストラリア代表、ラグビーワールドカップ2015出場)は、帰国を促す為に釜石までやって来た大使館員を返し、自ら釜石に残る決断をしたのです。
チームの仲間、たくさんのファン、そして釜石の街を愛してくれた彼らは、釜石を第2の故郷と呼び、折に触れて想いを寄せてくれています。

未来に繋がる新たな希望

釜石が“ラグビーのまち”として積み重ねてきた歴史と、そこから生まれた人の繋がりの深さは、ラグビーワールドカップ2019™でも存分に発揮されました。
2011年に東日本大震災で甚大な被害を受けた全開催地でも圧倒的に小さな町が、世界中から大きな注目と称賛を頂いた事は、過去から連なる歴史が生んだ誇りであり、未来に繋がる新たな希望です。